約束
王宮の中庭は、金色の光に包まれていた。
西日の差す中、直江は求めていた人影を見つけた。中庭に置かれたあづまやの椅子に、彼は身を投げ出すように座ってぼんやりと空を眺めているようだった。
「殿下」
直江が来ていたことに気付いていたのか、彼は驚いた様子もなく直江を振り返った。
「このようなところにいらしたのですか、景虎様」
彼は片眉を上げ、ふいと横を向いた。
「……高耶さん」
そっと名前を呼ぶと、ようやく彼は直江の顔を見てわずかに表情を緩めた。彼の母が死んでからは、直江だけに許された呼び方だ。
「明日、出立なさるんですね」
「ああ」
何でもないことのように高耶は微笑んだ。
「しっかり勉強してくる」
明日、彼は隣国へと旅立つ。名目は留学だが、内実は人質だ。領土欲の強い彼の父は、そうやって高耶のような妾腹の息子や娘たちを人質として方々へ送りながら、その国に攻め入っていた。
当然、生きて帰ることはない。
高耶の姿も、金色に染まって見えた。直江の魂を灼く、朱金の焔。
その彼が失われるかも知れないと思うだけで、凍てついた真空に投げ出されたような心地だった。
(ついて行けるものなら――)
直江公爵家の後継としての勤め、将来の宰相としてこの国の先を担う責任、己の為すべきこと、その全てが直江を苛む。だが、もし彼が――いなくなって、それがこの国のせいなのだとしたら。
(今からでも、彼について行かなくては。いや、彼をそもそも人質になど――)
「直江」
高耶の静かな声が響いた。
「餞を、くれないか」
直江は一瞬驚いた。高耶が直江に何かを望んだことなど、かつてなかったからだ。
「何でも仰ってください」
「何でも?」
「ええ、何でも。私ができることなら、いえ、できないことでもいたします」
高耶はおかしげに笑った。
ついてくるように言われ、王子宮へと向かう。
数多い王の愛妾の一人に過ぎず、しかも早くに身罷った高耶の母は、後見もさほどではなく、残された高耶の扱いも自然軽くなった。そんな高耶と、宰相である直江実綱の息子、直江信綱が出会ったのは、最初は偶然に過ぎなかった。
高耶の自室は、一国の王子のものとしてはあまりに淋しいものだった。寝台と机と椅子、そして本棚。だが、高耶の顔は綻んだ。
「小太郎」
名前を呼ばれた黒猫は、返事をするように寝台の上で伸びをして、高耶に向けて腹を出した。高耶は優しい顔で猫を撫でている。
「ああ、直江、小太郎は連れていけないから、気にかけてやってくれるか?美弥が面倒を見てくれると言っているけれど、多分あまりこれないだろうし」
「美弥様が引き取られるのですか」
「元々、美弥の猫だしな」
高耶は笑った。
高耶との出会いを作ったのは、この黒猫だった。正妃腹の王女である美弥は、大切に大切に育てられた、穏やかで優しい気質の姫だ。異母兄である高耶にも何故だか懐いて、兄と慕っていると聞く。
「直江と最初に会ったのも、そういえばあの中庭だったな。小太郎を探しに行って」
「そうでしたね」
いなくなった異母妹姫の猫を探していた小さな高耶の姿を思い返して直江は微笑した。
「今ではすっかり高耶さんの部屋に住み着いてしまったわけですが」
「ああ……」
高耶は小太郎を抱き上げて、控えの間まで連れていってそこの椅子に座らせた。
「ちょっと出ていてくれな、小太郎」
小太郎は不満げな顔で直江のほうを見ていたが、高耶に額のあたりを撫でられると大人しくそのまま座り込んだ。
高耶は扉を閉め、それから直江に向き直った。
高耶は寝台の上に座り、直江を見上げていた。
「何でもって、言ったよな。オレの望みを、何でも」
「ええ、高耶さん」
そうだ、もし彼が人質となるのを厭うならば、命に代えてでも彼を逃がし――
「……直江を、オレに、くれないか……?」
高耶の目が、まっすぐに直江を射抜く。
言われた意味が一瞬わからず、直江は戸惑った。だが高耶の目は揺るがなかった。
直江の中に押し込められてきた欲望が、明瞭に形をもって浮かび上がってきた。
乾いた唇を舐め、直江はもう一度高耶の名前を呼んだ。
「高耶、さん……」
彼の唇が、直江の名前を形作る。どこかおずおずと、だが確かに直江に向けて差し出された手を直江は取った。
「なおえ」
直江は彼を抱きしめ、噛み付くように唇に口付けた。そして二人、寝台にもつれるように倒れこんだ。
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「なおえ……直江」
必死で声をかみ殺していたせいか、すっかり高耶の声は掠れていた。体中に直江が残した愛咬の痕を散らし、目元は赤くなってしまっている。
「高耶さん」
大切に彼の体を抱きしめ、耳元で彼の名前を呼ぶと、彼はほうと息を吐いて直江の胸に頭を擦り付けた。
「直江は……オレのこと……」
「愛しています」
「……オレも……あい……愛して、る」
零れるような彼の囁き。眩暈のするような幸福と、喪失の予感への慄きが直江を揺さぶった。
「行かせたくありません」
直江は本心を吐露した。
「王は、必ずあの国に攻め入るでしょう。侵略の準備を整えるまでの時間稼ぎ、そんなことのために貴方が……」
「直江」
「私は貴方を失うことに耐えられません。行く必要など、ありません。――逃げましょう、二人で」
高耶はじっと直江を見つめている。直江は急き立てられるように言葉を続けた。
「手筈は整えてあるんです。貴方さえ諾ってくださるなら、すぐにでも……いや」
直江は高耶を抱きしめる腕に力をこめた。
「もし、諾ってくださらないのでしたら、攫っていこうと思っていました」
「直江……」
高耶は微笑んでいた。透明な風のような微笑みだった。
「高耶さん、一緒に」
高耶は首を横に振った。
「一緒には、行けない。行けないんだ……オレは、隣国に行かなくちゃ。国と国の、約束なんだから」
「高耶、さ……」
高耶は頬を直江の頬に合わせ、直江の耳元に口付けた。
「オレは、こうやって、直江をオレのものにできたら……いつ死んでもいいと思ってた」
直江は目を見開いた。
「だけど」
くすりと高耶は笑った。
「帰ってくるから」
「高耶さん」
「生きて、帰ってくる。ここに」
高耶は直江の胸に顔を埋めた。
「この恋が叶ったら、思い残すこともない、なんて。どうしてそんなこと、思ってられたんだろう……オレ、直江と一緒に、生きたいから。だから」
誇りやかに高耶は宣言した。
「約束する。直江。オレは、帰ってくる」
約束の印だ、と言って、高耶は小指に嵌めていた指輪を抜き取って直江に差し出した。
「帰るまで、預かっていてくれ。知ってるな?母上の、形見だ」
「……高耶さん」
掌に載せられた小さな指輪の重みを、直江は感じた。
「必ず」
「ああ。必ず、だ」
高耶は頷いた。
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高耶の出立は、国の威儀を整えた物々しいものとなった。だが、供の者はほんの僅か、皆死出の旅に赴くように悄然としていた。
彼らの乗った馬車が去っていくのを最後まで見届けることなく直江は踵を返した。
己のすることは、決まっていた。
一刻もはやく、この国の権を握ること。
父の後を継ぐ、などと悠長なことをしている暇はない。
ここから、彼を守り、彼の帰還を迎え、それからは、二度と離さない。
彼は、約束を守る。自分が、そうする。
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