人魚
第一話
少し酔いが回って、直江は甲板に出て風に当たっていた。
(船上でパーティーなど、酒でなくても酔う人間がいそうだが)
直江はらちもないことを考えながら夜風に吹かれていた。ごう、と時折突風が吹きぬけ、火照った体があおられそうになる。
「直江様、お戻りください」
背中から声をかけられ、直江は眉を寄せた。直江の侍従、八海だった。どうやら直江を探していたらしい。
「酔いが醒めたら戻る」
「殿下」
咎めるように言われ、直江は溜息をついた。
「どうせ主役でもない、かまわないだろう」
「いいえ、此度の宴は直江様の花嫁候補を探す意味合いもあります。王太子殿下のお気遣いを無になさるおつもりですか」
直江は再び溜息をついた。
「結婚など必要ないだろう、三番目なのだから」
「そのようなことを。陛下がお聞きになりましたら、異国に婿入りさせられますよ」
「そ、それは」
八海はさらに続けた。
「直江様が姫であられれば、もうとっくに祖国との別れを迎えていますよ」
「……もう少ししたら戻る」
「はっ」
八海は頭を下げた。
直江は遠くの海上を見つめた。
不知火だろうか、ぼんやりと海上にゆらめく光が見えた。
「……戻るか」
すっかり酔いも醒め、強風に吹かれていた体は冷えていた。波が船体にぶつかる音といい、風の音といい、海は荒れてきていた。
「……!」
一瞬、今までなかったほどの風が吹き抜け、直江の足は甲板から離れた。端に立っていたのが災いして、直江はそのまま船上から落ちた。
「!」
暗い海に呑み込まれ、直江は意識を失った。
「あれほどお戻りくださいと申しましたのに」
八海の小言に、直江はベッドに横になったまま苦笑した。
「悪かった」
いつになく神妙なのは、心配をかけた自覚があるからだ。
「本当に、ご無事で何よりでした。麻衣子様が見つけてくださらなかったら、どうなっていたことか」
「ああ」
荒れる海に落ち、運よく海岸に流れ着いた直江を見つけてくれたのは、浅岡侯爵家の令嬢、麻衣子姫だった。幸い、体のどこにも怪我はなかったが、冷えた体でそのまま放置されていれば、命を落としたかもしれない。
「礼状を書かなくてはな」
「ええ。……おや、失礼したします」
話をしていると、取次ぎらしき者がきて、八海になにやら耳打ちをする。
「……直江さま、噂をすれば、その麻衣子姫がお見舞いにいらしてくださったそうです」
「そうか、いそいで身支度せねば」
「……お見舞いなのですから、寝ていてもよろしいでしょう」
「そうは行くか」
見栄張りの直江は身支度のために侍女を呼び寄せた。
(麻衣子姫か……)
意識を取り戻して最初に見たのは、直江を心配そうに覗き込む人影だった。太陽を背にしていたので、顔立ちまではよくわからなかったが、直江の濡れた髪をそっとかきあげてくれた指を覚えている。尤も、直江は再び意識を失ってしまい、気がついたときには屋敷の自室にある、寝慣れたベッドに横になっていたのだが。
身支度を整えて応接室へと向かう。清楚なドレスに身を包んだ女性がソファに腰掛けていた。少女めいたふっくらした頬と情感豊かな唇がアンバランスなのが逆に不思議な色香を醸し出していた。
「麻衣子姫、このたびは大変お世話になりまして、ありがとうございました。姫に見つけていただけなければ、私は海岸でそのまま幽界へ居を移すこととなったでしょう」
「まあ、直江様、もう起きられても大丈夫なんですの?」
麻衣子は本当に心配しているような顔で首を傾げる。直江はにこりと微笑んだ。
「わが命の恩人たる麻衣子姫にお目にかかるというのに、寝ているなどできません」
「まあ」
「それに、こうしてお会いすることができて、私は海に落ちたことを感謝したくなりました」
麻衣子が耳まで赤くなる。
「これからも是非親しくお付き合いさせていただきたいものです」
「え、ええ、直江様、勿論ですわ」
浅岡侯爵家は家柄こそよいが、現在あまり歩振りがいいとは言いにくい。が、そういう家のほうが、王家とつながりができたからと増長するのを抑えやすいだろう。
こうしてみれば、顔もまあまあ、性格は大事に育てられた箱入り娘らしく天真爛漫、無邪気で素直なようだ。
(幸い娘のほうも乗り気なようだ……)
わざわざ見舞いに娘と従者だけでよこしたのは、浅岡侯爵にもそういう腹積もりがあるからだろう。
それに、と直江は頬を抑えた。
(頬を撫でた指はどこかひんやりしていたのに、不思議なほど優しく暖かに感じられた……)
一目ぼれならぬ一感触ぼれかもしれない、と直江は内心苦笑した。
「よろしいのですか?」
八海に問われ、直江は眉を上げた。
「麻衣子姫は、直江様のいままで付き合ってこられた女性とはだいぶ違います。色恋の駆け引きなど知らぬ、純朴な方のようですが」
「身を固めるなら、そういう相手のほうがいいだろう?」
「……そうですが。結婚なさった後、また恋愛遊戯などに手を出されれば、直江様もあの方も、苦しむことになりますよ」
いつになく八海は真剣な顔だった。
「遊戯など」
直江は指先で頬を撫でた。
あの優しい感触に、今度は本気なのかも知れない、と直江はわずかに苦笑した。
「正式にではなく、少し様子を見られたほうがいいと思います」
側近中の側近である八海の言葉は尤もだったが、かすかに直江は反発を覚えた。
「私だとて、恋愛くらいする」
「……命の恩人だからですか。えてして錯覚のことも多いですから」
「八海」
「一生のことですからね」
八海の言葉は、常に直江のためにある。そのことは重々承知している直江は、不承不承頷いた。
「少し様子は見る。心配するな」
「はっ」
直江の言葉に、八海は安堵したようだった。
麻衣子はすぐに直江に夢中になった。だが、反対に直江のほうは八海の忠告が身にしみてきていた。
(確かに、よく知りもしない女性に恋だの愛だの言ったところで、結婚となると……)
悪い女性ではないし、素直さも率直さも、今まで付き合ってきた女性たちとは随分と違うが好感は持てた。が、己の生涯の伴侶となると、少し物足りない……と思えてきたのだ。
「直江様の伴侶となれば、公爵家を預かるわけですから」
八海が用意してくれた茶を口にして、直江は息を吐く。
「わかっている。だが、それは執事がしっかりしていれば問題なかろう」
おや、という目で八海が直江を見る。
「麻衣子姫には随分と点が甘いですね」
「そうか?」
「ええ、いつもであれば、少しでも気に沿わない所を見つけたらすぐに幻滅、でいらっしゃいましたよ」
「……」
「直江様も、今度ばかりは本当に本気でいらっしゃるのかもしれませんね」
八海の言葉に直江はわずかに顔をしかめた。
「今度ばかりは、とは何だ」
「いえいえ」
八海がくすりと笑う。直江は憮然とした。
「『恋は人を盲目にする』と申します。すべてが愛らしく映るのでしたら、本物でしょう」
「そんなことは、ないが」
直江はもごもごと口ごもった。
(恋、か)
麻衣子と出会ったはずの海岸をふらりと歩く。あの日とは違い、穏やかな海風が直江の頬を撫でていく。
直江は指先を頬に当てた。
「あの指、だった……はずだ……」
女性らしくほっそりとした美しい指。だが、あのとき頬を撫でたのは、本当に彼女の指だったのだろうか。
しばらくぶらぶらと当てもなく歩くうちに、直江は砂浜に倒れている人影を見つけ、慌てて駆け寄った。
少年が全裸で、うつぶせになっている。何かの犯罪にでも巻き込まれたのか、と直江は少年の背にそっと触れた。幸い、ひんやりとはしていたが、死体のような冷たさではなくほっとしたが、そのままにするわけにもいかない。
「大丈夫ですか、怪我してるんですか」
少年はぐったりしたまま、動かない。
直江は己の外套を脱いで少年の体をくるみ、そっと抱きかかえた。
「すぐにあたためてあげますからね」
少年は随分と軽かったが、何かとても大切なものを抱きしめているような気がして、直江は慎重に歩き出した。
「直江様、そちらは」
直江が大事そうに抱きかかえた少年に、八海は血相を変えた。
「海岸で倒れていたのを見つけた。急いで部屋を用意……いや、私の部屋へ運ぼう」
それが一番早いだろうと思っての言葉だったが、八海は少年の顔に目を走らせ、一瞬遠い目をして直江を一瞥した。
「なんだ」
「いえ。……詳しいことは後ほど。医者を呼んでもかまわないのですか?」
「……怪我はないようなのだが」
「そうでごさいますか」
八海はてきぱきと動き、いつ主が帰ってきてもいいように用意してあった部屋へ少年を迎えた。
「部屋は十分あたためてありますから」
「うむ」
「何か飲むものを持ってまいりましょう……直江様」
先ほどから物言いたげな顔で直江をちらちら見る八海に直江は首をかしげた。
「どうした、八海、何か言いたいのか」
「……直江様がこのような行為に走られるとは……」
顔を覆って天を仰ぐ八海に直江ははっとした。
「ち、ちがうぞ、これは決して」
「無理強いではなかったと?ならよろしゅうございました」
安心したように八海が微笑むが、直江は笑えなかった。
「無理強いなど!っと、いやそれ以前にそのような!」
「直江さま、お客人が気がつかれたようですよ」
慌てて振り返ると、少年の目がうっすらと開いていた。
真紅の瞳が直江を見上げた。
己の心臓がどくりとざわめくのを感じて直江は狼狽した。
「気がつきましたか」
声をかけると、少年は瞬きして体を起こそうとした。直江が駆け寄って手を貸すと、少年は戸惑うように瞳を揺らした。
「どこも痛いところはありませんか?」
「……」
少年の唇が動くが、声は聞くことができなかった。喉に手をあてて、少年は俯く。
「喉が痛いんですか?声が……でない?」
俯いたままの少年に、直江は慌てた。
「八海、やはり医者の手配を」
「はっ」
八海が下がるのを見届けて、直江は少年に八海が用意していってくれた温かなお茶を勧める。
「体が冷えているようですから」
「……」
少年があたりを見回して首を傾げる。直江は安堵させるように微笑みかけた。
「私は直江と申します。海岸に倒れていた貴方を見つけたので、とりあえず私の屋敷へ来ていただきました。もし行かれるところがあるのでしたら、馬車を出しますので言って……あ、いや」
直江は書くものを用意して、少年に示す。
「なにかあれば、こちらに……」
そこまで言って、直江は彼が異国人である可能性に思い至った。黒い髪に赤い瞳は、直江の国では珍しい。
「あの、私の言葉はわかりますか?」
少年は困ったように首を振る。直江は自分を呼びさして「なおえ」と声に出した。
「……」
少年の唇が動く。ジェスチャーはあまり変わりがないようなので直江はほっとした。少年も自分を指差して唇を動かす。
「あ?か?さ……た」
こくこくと彼が頷く。
「たかや」
彼が嬉しげに笑って頷く。飾らない笑みに直江は一瞬見蕩れた。
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