人魚
第二話
少年は覚えが早かった。直江がつききりで、簡単な単語を口にして紙に書くと、一度でそれを覚えていく。単語の羅列だが、意思の疎通も図れるようになった。
「高耶さんは、どうして海岸に倒れていたんですか?」
『在 家 不 可能 理由 規則 反』
「規則に反したために家にいられなくなった?」
高耶が頷く。
「そんな……あの、どんなことだったんです?もし私で力になれるようでしたら、なんなりと」
高耶は苦笑して首を振った。
『不 可 救助 人間 規則』
「助けてはいけない人を助けた」
こくりと高耶は頷いた。
『非 悔』
「高耶さん」
『感謝 直江 救助』
「いえ、そんな、当然のことです」
高耶以外の人間があそこで同じように倒れていたとしたら。助けはしただろう。だが、その後は屋敷に逗留させたりせず、役所に頼むだけだったろう。
(当然、か)
高耶に必要以上にかまけている自覚もある直江は、思わず苦笑した。
「直江様、麻衣子様がいらしてますが」
八海に言われ、直江は顔を上げた。高耶は文字を書いていた手を止め、直江を見上げる。
「今日は約束などしていなかったはずだが」
眉を寄せる直江に、八海は苦い顔をした。
「今日は、というより、ここのところ全く、でしょう。それで姫も不安になられたのだと思いますが」
直江は唇を曲げた。
「いきなりの訪問など、淑女のなさることではなかろう」
「いつでもいらして下さい、と仰っていたのは直江様です」
八海の正論に、直江は溜息をついた。
「高耶さん、すみません。来客がありまして。少し席を外しますね」
『気にしなくていい』
高耶はここの言葉をすっかり覚えた。書きなれていないためか綺麗とは言い難いが、人柄そのままの実直な文字を綴る。
「すぐに戻りますから」
高耶は笑って首を振った。
『大丈夫だ。貸してくれた本を読むから』
直江は高耶の笑みを見つめていたい衝動に駆られたが、八海にもう一度促されてしぶしぶ部屋を後にした。
麻衣子とは久しぶりに顔を合わせた。最初は愛らしいと思った顔立ちや物腰、態度のすべてが最近では甘ったるく媚びたものに感じられて、正直鬱陶しくなっていた。
「今日はどうなさいました、姫」
直江がそれでも取り繕って穏やかに尋ねると、麻衣子はもじもじと扇子をいじりながら俯いた。
「申し訳ありません、直江さま。ただ……最近、直江さまのお顔を拝見していなかったものですから、どうしてもお会いしたくて」
一時は恋人に、と思った相手にこう言われ、さすがに直江も罪悪感を感じた。そもそも、麻衣子が己に好意を持っているのはわかっていた。そこに優しい言葉をかけ、思わせぶりな態度を取ればどうなるか、想像するだに難くない。
「麻衣子姫」
「舞踏会にも、直江さまは最近お出ましになりませんし……淋しかったのです」
潤んだ瞳に見上げられ、直江は息を吐いた。
「すみません、姫。このところ、少々私用が立て込んでおりました」
宥めるように言うと、麻衣子は表情を明るくした。
「直江さま、あの、今度、門脇様の婚約披露がございますでしょう?ご一緒させていただいてもよろしゅうございますか」
(……まあ、誰と付き合っても、どこかに不満は残るものだろうが……だが、ここで断れば、またうじうじと何か言われるだろう)
正式に婚約すれば、少しは麻衣子も安心する。煩わしく何か言い出すこともなくなるだろう。浮気をする予定があるわけでもない。
「ええ、是非。姫と最初に踊る栄誉をお与えください」
「まあ」
麻衣子が頬を染める。文句のない愛らしさに、だが直江の心はどこか晴れなかった。
「高耶さん、なんだか元気がないようですが」
いつものように高耶と書き取りをしていたが、なんとなく彼の顔色が悪いように思えて直江は心配になった。
「根をつめすぎましたか?無理しないでくださいね」
なんでもない、と笑って首を振る高耶の額に掌をあてる。
「熱はないようですが、ちゃんと休んでください」
高耶は直江を見上げて、こくりと頷いた。
『休む』
立ち上がる高耶を慌てて寝室へと連れていった。高耶は直江の寝室にそのまま逗留している。あれこれと彼のために温かい飲み物や柔らかな寝巻き、気分を落ち着かせるかすかな香りの香炉などを持ってこさせて、彼をベッドに寝かせた。
「いつまででもいてくださっていいですからね」
「……」
高耶は瞳を揺らした。
直江が髪の毛を梳くと、高耶はいつも和らいだ表情になって目を閉じてくれる。今日も直江はそっと彼の柔らかな黒髪に触れ、指の間を滑っていく感触に目を細めた。だが、高耶は不安げな瞳を伏せていた。
「高耶さん、何か心配ごとでもあるんですか?」
首を振って、高耶は直江を見上げて微笑んだ。その微笑がひどくはかなく見えて、直江の鼓動が跳ねた。
海が見たいという高耶と共に、直江は海辺へとやってきていた。あれから体調の悪そうな高耶が心配だったが、潮風が気持ちいいのか高耶は嬉しそうに目を細めている。
「高耶さんと初めてあったのは、このあたりでしたね」
尤も、高耶は気を失っていたわけだが。
「高耶さんが倒れているのを見つけたときはびっくりしましたが」
くすりと高耶が笑う。飾らない笑顔を向けられて、直江の顔も自然にほころんだ。
そんな二人に、八海が困った顔をして近寄ってきた。
「どうした」
「直江様、実は」
耳打ちされて直江は眉をしかめた。
「なぜここが」
「偶然のようですが、直江様をお見かけしたようで」
浅岡侯爵とその家族が近くに来ているらしい。是非挨拶をといわれ、断ることもできない。
「高耶さま、こちらでしばらく休まれては」
八海が高耶を連れていくのを見て、直江は溜息を押し殺した。
麻衣子と顔を合わせても、直江は何も感じなかった。いや、むしろ苛立ちや煩わしさばかりが増幅されている気がする。
「……それで、是非一度殿下にもいらして頂きたいものです」
「そうですか、暇があれば是非伺いたいところですが、連れと来ておりまして。また日を改めまして」
やんわりと直江が断ると、浅岡侯爵はなにか感じるところがあったのか苦笑した。
「そうですか、ではあまりお邪魔するわけにはいきませんね。さ、麻衣子」
「え、お父様」
麻衣子のほうは、せっかく直江と会えたのにと不満そうな顔を一瞬見せたが、大人しく一礼する。
「今日はありがとうございました、殿下」
「いえ、とんでもない」
去っていく二人に直江はようやく息をついて、それから一刻もはやく高耶の傍らに戻りたいと立ち上がった。
「……高耶さん」
青い顔の高耶に直江は慌てて駆け寄った。ベッドの中で目を閉じている彼の寝息を確かめてしまう。
(よかった)
不吉な連想を打ち払って直江は高耶の肩まで羽根布団を引き上げて、彼の眠りを妨げはしないかと注意しながら彼の髪の毛に触れた。
柔らかな髪に直江の心も休まった。
「……」
彼の目が開いた。
「どうしました」
「……」
高耶が紙に書き付ける言葉を直江はじっと見つめた。
『オレは平気だから、あのお姫様のところへ行ってあげて』
「高耶さん」
『気にしないで』
「しますよ!」
直江はつい声を荒げてしまった。
高耶は不思議そうに首をかしげ、直江を見つめた。
『どうして?』
「それは」
どうして命の恩人なはずの麻衣子姫より彼のほうが気になるのだろう。
直江は自分の頬に触れた。あの時の感触を思い返すと、胸が痛くなった。それでも、今青い顔でベッドに横たわっている彼のほうが大切だった。
「高耶さんのことが大切だからです」
『あのお姫様と結婚すると聞いた』
余計なことを彼の耳に入れたのは誰だ、と直江は内心腹立たしく思ったが、何とか抑えた。
「結婚するかどうかはまだわかりません」
『居候の男より大事』
「居候だなんて!ここにいて欲しいと私が望んでいるんです」
高耶は目を閉じて、かすかに笑った。
『ありがとう。オレ出て行く』
ありがとう、と出て行く、の間が埋まらず、直江は一瞬ぽかんとしてしまった。
「え?」
『世話になった』
「そんな、高耶さん!行くところがあるんですか?」
『こちらにも友人がいる』
「……では、その人のところまで送ります」
このまま高耶とのつながりが切れてしまったら、と思うと、直江は気が気でなかった。せめてその友人とやらを知っておきたい。
『海で暮らしているから、いつもいるとは限らない』
「そんな、高耶さん、体調だって良くなさそうなんですから、いつも人がいる所でなくては」
『コレは平気。理由もわかっている。一族の持病だ。友人も一族の一人だから心配ない』
高耶が決めたことを覆すことはできなかった。直江がどれだけ言葉を尽くし、半ば懇願しても高耶は留まることを諾ってくれなかった。
『元気で。ありがとう、直江』
なんとかその友人とやらの小屋についてきた直江だったが、人が住んでいるようには思えないあばら家で、到底直江は納得できなかった。
「ええ、高耶さん」
高耶の微笑みかけながら、直江はその友人とやらが帰ってくるまで誰かを護衛に置くことに決めていた。
(なるべく自分で来るが……見つかったら怒るだろうか、高耶さんは……)
それでも構わなかった。高耶に何かあったら、と思うだけで直江は焦燥に駆られるのだ。
「高耶さん、体には気をつけて、いつでも訪ねてきてくださいね。もし来なかったら押しかけますからね」
高耶は困ったように笑って、直江に手を振った。
高耶と別れの挨拶をして、踵を返した直江だったが、後ろ髪を引かれっぱなしだった。高耶が心配で仕方がない。
「今日は少し余裕があるな」
呟いて、直江はささっと小屋の近くにあった水カメの近くに体を潜めた。
「高耶さんの友人とやらの顔を見ないでは帰れません」
病身の彼を預かれない程度の相手だったら、到底このままにはできない。
直江はその友人とやらが戻ってくるのを辛抱強く待った。
波の音に、最近疲労がたまっていた直江は不覚にも眠りこんでしまった。
気がつくと月が上空に出ていた。
はっとして小屋に目をやると、灯りはついていなかった。
(高耶さんは)
月明かりで判然としなかったが、耳を澄ますとかすかな物音が聞こえた。
きい、と扉が開く音に直江は首を縮めた。
高耶が外に出てきた。
(結局、友人というのは来なかったのか?それとも、一度帰ってきてまた出かけたのか……)
寝こけていた己を叱咤しつつ、もしかしたらその友人と会おうとしているのかもと直江は高耶の後をつけた。
高耶は海に向かってゆっくり歩いていく。
暗い海に月の光が落ちて、一筋の道を作っていた。
潮騒に混じって、透明な歌声が聞こえた。人間を魅了するような美しい声だった。だが直江には高耶の後姿以外に意味はない。
ぱちゃん、と水音がした。高耶が海岸の岩の上に座る。
(高耶さん、夜の海であんなに海の傍まで行ったら危ないのに)
見つめる直江は気が気でない。
「……」
海からの歌声が止み、水底から何かが浮かび上がってきた。
「……!」
月光の元、姿を現したのは、紛れもない人魚だった。
人魚は高耶の傍に近づき、その細い腕を伸ばした。
「!」
高耶が引き込まれるのでは、と危惧した直江は飛び出そうとしたが、親しげに抱擁しあう様子にとりあえず様子を見る。
『高耶、顔色が悪いわ……』
直江は驚いた。高耶に戯れのように教わった、高耶の国の言葉だった。話すことのできない彼から発音を学ぶのは難しかったが、そうして口実をつけて彼の唇や喉に触れることができるのが嬉しく、かなり熱心に教えてもらった成果か、多少は意味がわかるようになったのだ。
高耶が首を振る。
人魚は彼をかきくどくように続けた。
『高耶があれを殺さなければ、高耶は死ぬ』
「!?」
『本来、あれは死んでいる。高耶が死ぬ必要はない』
それでも首を振る高耶に、人魚は泣いて彼にすがった。
『掟、壊せなかった。高耶が殺さない。なら私が殺す、あれを』
高耶は人魚の髪を撫でた。優しい、手つきだった。
『どうしてだめ?』
「……」
高耶は、笑ったようだった。月の光に照らされた姿ははかなくも美しく、そして消え入りそうに見え、直江は焦燥に駆られた。
『このナイフであの王子の胸を刺すだけ。簡単』
人魚の繊手に握られた銀色の短刀が月光を浴びて輝いていた。
直江は人魚と高耶の会話を必死に聞く。
『王子の血を浴びれば、高耶は戻れる。帰ったら、結婚』
人魚は短刀の柄をぎゅっと握りこんだ。高耶は一瞬だけ困った顔をして、それから宥めるように人魚の手を撫でた。
『高耶、自分でやる?……わかった。待ってる』
短刀を受け取って、高耶は人魚に微笑みかけた。人魚は嬉しそうに笑って尾を翻し、海中へ消えた。
人魚が消えると、今までの光景はまぼろしだったのではと思えた。だが、高耶の手にある短刀が、事実なのだと告げる。
『高耶は死ぬ』
『王子の血を浴びれば、戻れる』
高耶が立ち上がった。持っていた短刀を波間へと放る。
「!」
直江は動けなかった。
高耶が小屋に戻っていく後姿を直江は見つめていた。
「高耶さん、高耶さん」
朝になるのを待ちわびていた直江の登場に高耶も驚いた様子だった。
「昨日は、お友達の方は帰ってこなかったんですか?」
『いや』
「本当に?」
高耶は困った顔をして俯く。
「高耶さん、一緒に帰りましょう。高耶さんの体が心配ですし」
直江が高耶の手を取ってそう言うと、 高耶は首を振った。
頑として頷かない高耶に直江は溜息をついた。
高耶は心配だが、いくらなんでももう帰らねばならない刻限だった。
「また来ます」
ふっと笑った高耶が気がかりだったが、行くように促され、直江は仕方なく踵を返した。
いつになく風が強い一日となった。季節はずれの雷が鳴り、直江はあの隙間風や雨漏りがひどそうなあばら家にいる高耶が気になって、仕事は手につかない。
「直江さま?」
八海に声をかけられ、直江は我に返る。
「彼が心配で」
いつになく素直な直江に八海は驚いた様子だった。
どうしても抜けられない勤めだけはなんとか終えて、直江は海岸へと急いだ。
(高耶さん……)
なにかあっても、声を出せない高耶では、助けを呼ぶこともできないではないか。
八海が手配してくれた馬車を飛ばして、海岸近くに降り立った。
ごう、と海風が吹きつける。直江は飛ばされないように外套の前をかきあわせた。
『人間の王子よ』
氷塊のような声が響き、直江は驚いて振り返った。
波濤が岸壁に打ち寄せる中、人魚がいた。
「!?」
まだ太陽が明るい日中に人魚の姿を見るなど普通は考えられない。が、直江の前に姿を現した女の人魚は、直江のことをよく知っているような目つきをしていた。
人魚は、御伽噺に出てくる姿そのままの美しさだった。海の泡より白い肌、紺碧の瞳、陽光にきらめく水面のように輝く髪が風になびく。彫像よりも整った容貌は現実感がなかった。
だが、直江を見据えるその瞳は極北の海よりも冷たかった。紅珊瑚の唇を開き、呪詛するような言葉をつむぐ。
『地を這う虫けらの、たかだか100年に満たぬ命のために、わが同胞の命が失われるなど、あっていいはずがない』
不思議なことに、人魚の言葉はまるで脳裏に焼きつくように理解できた。高耶と人魚が話しているときは、意味が切れ切れにわかる程度だったというのに。
『お前の命でかの方の命を贖え、直江信綱!』
頭蓋いっぱいに響き渡るような声。歌うようなそれに、直江はようやく人魚の魔力を思い出した。その声で、人間を惑わせ、船を沈める――
無防備にそれを聞いてしまった直江は、懐に入れた短剣を取り出した。自分の意思とは関係なく腕が動き、鞘から抜き放つ。
(……高耶さんに、会えなくなってしまう……!)
直江は必死に抗ったが、腕はじりじりと動き、胸に刀身が宛がわれ、力が込められようとした。
「高耶さん!」
直江の声が聞こえたかのように高耶が走って現れて、何か叫ぶように口を動かしていた。人魚は高耶を見て唇を噛みしめる。
『高耶が、死んでしまう……』
人魚はひどく悲しげにぽつりと漏らし、それから身を翻して海へと消えた。
直江の腕は、その瞬間自由になった。服を突き通し、尖端はわずかだが皮膚を破って血が滲んでいた。
高耶は直江が無事なのを見て安堵したように微笑んだ。
だが、直江は高耶の顔色があまりに悪いことに愕然とした。
「高耶さん!」
直江が駆け寄って抱きしめると、高耶は気を失うように倒れこんだ。
(熱が?)
高耶の体はひどく熱く、直江は彼を抱きかかえて馬車へと急いだ。
「急いで戻ってくれ!」
「はっ」
(高耶さん!)
直江は熱い高耶の手を握り締めた。
水で濡らした手巾で高耶の額をそっと拭う。特別に取り寄せさせた氷室の氷で高耶の熱もだいぶ下がったが、紙のように白い顔色は到底安堵できるものではなかった。
「高耶さん……」
直江の声が聞こえたように、高耶が目を開いた。
「高耶さん!」
直江を認めると、高耶はわずかに笑った。
「水、飲めますか?」
そっと高耶の体を抱き起こしてグラスを唇にあてるが、水がこぼれてしまった。直江は水を口に含んで、高耶の唇に触れる。
「……っ」
もう二口ほど口移しで水を飲ませると、高耶は満足したように息を吐いた。
直江は手を伸ばし、高耶の柔らかな髪を梳いた。
「……高耶さん……」
あの人魚に言われた言葉を思い出す。
「本当なんですか、わたしのせいで、高耶さんが……」
高耶は首を振った。
「しかし、あの人魚はそう言って私を殺そうとしました」
「……」
高耶は頭を下げた。
高耶は直江をまっすぐに見据え、ゆっくりと首を振った。それから体を起こし、脇の小机上に置かれていたペンを手にする。
『お前とは無関係だ』
「では、あの人魚の言葉は」
『一族の掟に関わること。一族の問題であって直江のせいではない』
直江はぎりと唇を噛み、高耶の手を取った。
「では、その一族の掟とはなんなんですか」
『一族以外は知る必要はない』
「……でも、私の心臓の血で、あなたの病気が直るんでしょう?」
高耶は視線を落とした。
「高耶さんが話してくれないなら、それはもう聞きません。けれど、高耶さんを助けたいのは私の意志です」
直江は懐から短剣を――先ほど、直江の胸を突く寸前に逸らされた品だ――取り出して、己の胸に近づけた。
「高耶さん!」
短刀を止めたのは高耶の掌だった。抜き身の刃を握ったところから赤い血が流れ、直江は蒼白になった。
「なんてことを!誰か!誰か医者を呼べ!」
高耶の傷を押さえ、袖を破いて止血のために巻きつけた。
直江の叫びを聞いた八海が部屋に飛び込んできて、高耶が怪我をしたことを知るとすぐさま踵を返す。
「すぐに呼んでまいります!」
「頼んだぞ、八海」
「どうして……」
高耶が手を怪我したために、文字で意思疎通することもままならず、直江はじっと彼を見つめた。
高耶も見つめ返した。たじろぐことのない眼差しに直江は息を呑む。
「……すみませんでした、高耶さん」
彼が、誰かの命と引き換えに延命を望むことなど、ありえないのに。
それでも、直江は高耶を失うことには耐えられなかった。
「……」
高耶が口を開く。音にならない声で、ゆっくりと唇を動かす。
『オレは、後悔していない』
「高耶さん」
『お前に会えてよかった』
「……私のほうこそです……」
部屋の扉がノックされて直江ははっとした。
「直江さま、医師をお呼びしました」
「あ、ああ、入れ」
医師は高耶の傷を見て、縫うほどではない、と直江を安心させてくれた。
一通り処置し、医者は高耶の顔色の悪さのほうが気になったらしい。
「ずいぶんと顔色が悪い。きちんと食べているかね?日光に適度に当たっているかな?」
直江を非難するような目に、思わず直江は立ち上がってしまった。
高耶のほうは曖昧に笑んで、医者に頭を下げた。
栄養のあるものを食べて、十分な休養を取るように、と医者からきつく言われ、直江は高耶を半ば無理やりベッドへ横にならせた。
「高耶さん」
発熱した上に出血で、だいぶ体力を消耗していたのだろう、高耶はすぐに眠ってしまったようだった。起こすのも躊躇われ、直江はただ彼の髪を梳くくらいしかできなかった。
このまま、彼が儚くなってしまったら。
恐怖に直江の体が震えた。
「直江さま、こちらを……」
高耶から目を離すのが怖い。決済が必要な書類などを八海が気を利かせてこちらへ運んでくれたが、来客は邪魔以外の何物でもなかった。
「ご苦労だった、すまないな、八海」
「いえ、直江さま。それより、先ほど申し上げたとおり、ご来客の方はまだお帰りくださいませんで」
「……構うな」
八海は溜息をついた。
「仮にも侯爵令嬢にそのような真似をしましたら、ことは王家と貴族間のいざこざにまで発展しかねません」
直江は眉を寄せた。どんなわずかな瑕疵でもつけこまれる隙を作るわけにはいかない。直江一人の問題ではなくなってしまうのだ。
仕方なしに直江は応接室へ来客――浅岡麻衣子を通すように告げた。
「直江さま」
ソファーに座って物憂げな表情をしていた麻衣子は、入ってきた直江を認めると喜色を浮かべて立ち上がった。
「お会いしとうございました」
駆け引きも何もない、率直な言葉。直江が今まで適当に付き合い、あしらってきた女たちとはまるで違う。だが、一時は愛らしいと思った彼女の稚さが今は煩わしい。
「何か御用ですか」
冷たい声に、麻衣子は身を震わせた。
「直江さまがずっとお屋敷に篭りきりでいらして、ご病気でもなさったのではないかと……」
「病気などしてはおりません。……もうよろしいですか?」
「え?」
ぽかんとした彼女を切って捨てるように直江は扉を指し示した。
「姫がお帰りだ、送ってさしあげろ」
「直江さま」
麻衣子は俯いた。
「……わたくし、直江さまに嫌われるようなことをいたしました?」
「……」
「自分でも気の利かない娘だとは思っております。けれど、直江さまは……それを疎んじたりはなさらなかったのに……」
大きな目から涙が溢れて、まろやかな頬を伝い落ちる。
直江は何も感じなかった。
ただ、はやく彼女が帰ればいいと苛々した。
従者に支えられるようにしておぼつかない足取りで屋敷を後にする麻衣子を一瞥して、直江は高耶の元へ戻った。
「高耶さん、これは食べられますか?」
直江が差し出したのはりんごのおろしたものだった。甲斐甲斐しく世話をやく直江に高耶は苦笑する。
わずかに頷いてなんとか匙を動かす高耶だったが、やはり食欲はないらしく、なかなか進まなかった。
「何か欲しいものがあったら言ってくださいね」
直江が声をかけると高耶はやんわりと笑んだ。
それから、直江を伺うようにわずかに首を傾げる。
「なんですか?」
『姫様はどうしたか』
「!?」
直江は瞠目した。
「高耶さんが気にかけることはありませんよ」
直江は取り繕うように言った。だが、高耶はもっと別のことを心配しているように顔を曇らせた。
『直江が悲しませた』
「それは」
『隣の男はそう思っていた』
直江は首をかしげた。
「隣?」
『支えていた男』
言われてようやく麻衣子を支えていた従者を思い出した。
「そんなことより、体を休めてください」
高耶は直江をじっと見つめた。
「……」
直江はその視線に晒されて、わずかにだが俯いた。
己のいい加減さ、不実さが彼女を苦しめたのは間違いないのだ。八海にも忠告されていたにも関わらず、愛のなんたるかも知らなかったのに愛だと思い込んだ。
己の指で頬を撫で、それから直江は高耶の指を取った。
| 広告 | 花 | 無料レンタルサーバー ブログ blog | |