人魚

第三話




 眠った高耶の傍で、直江は濡らした手巾を取り替えた。月光に照らされた高耶の顔は青白く、触れれば消えてしまいそうで直江は目を離すのも怖くなった。
 彼を起こさないように気をつけて、髪の毛を梳る。瞳が隠れると、どこか幼い印象すら覚えた。
 「高耶さん」
 遠くでかすかに、哀しい、悲鳴のような歌声が聞こえた。

 いつの間に眠ってしまったのだろう。気がつけば直江はベッドに突っ伏すように寝ていた。
 はっとして身を起こし、眠っているはずの高耶を見る。
 「高耶さん!」
 高耶が、いなくなっていた。
 慌てて掛け布団をはいで触ってみると、まだ温もりが残っていた。ベッド脇の机においてある燭台に火を灯し、あたりを見回す。
 「……これは」
 紙切れに乱暴な筆跡で書かれていたそれに、直江は目を剥いた。

 『直江信綱。
 姫様がお前を見つけた海岸へ来い。
 この男は連れていく』

 「くそっ!」
 直江は着替えもせずに部屋を飛び出した。

 厩に急行して一番の駿馬に乗り、海へと走らせた。
 (何故、高耶さんを!)
 あんなに弱っていた高耶を連れて、そう急ぐことはできないだろう。
 海岸まで出て、直江は馬を降りて走った。
 「高耶さん!」
 小さな小屋から、男は高耶に短刀を突きつけて姿を現した。

 直江は月明かりの下で目を凝らす。男の顔に見覚えはなかった。
 「彼から離れろ」
 直江が静かに言うと、男は笑った。
 「そんなに大切か、こいつが」
 直江は息をつめて男の反応を窺った。男の目的は、直江自身の命よりも、直江を苦しめることかも知れない。
 「姫様は、お前を本当に好いていたのに」
 「……」
 それがどうした、と口をついて出そうになるのをぐっとこらえる。男を激昂させるのは得策ではない。
 「こんなことをしても、麻衣子姫は喜ばないだろう。病人を巻き込んだなどと知ったら、むしろ」
 「……っ」
 直江の言葉は図星だったらしい。裏表のない、美しいものだけを見て育ったような彼女ならば、病人を人質に取るような行為は許さないだろう。
 「あの方は無関係だ、だが、俺は貴様が許せん!人の心を弄びおって!姫様のような素直な方をその気にさせるのは簡単だったろう!!」
 ぐっと男は拘束した高耶の喉元に短刀を押し付けた。
 「遊ぶのに飽きたら、もう用なしか。貴様の噂なら、山程聞いた!心のない、冷血漢。人の振りをした氷の人形だとな」
 「……」
 「それが、コイツを連れてきたら、血相を変えて追ってきた……」
 くっくっく、と男は笑った。
 「人間にようやくなったわけか、人形から」
 「……」
 「ならば、失う痛みも理解できるようになった、というわけだ」
 「!」
 くっと刃先を軽く高耶の皮膚に沈める。ぷくりと血珠が溢れ、雫となって首筋を伝った。
 「やめろ!その人には何の関係もない!」
 「……ならば、直江信綱。コイツが死ぬか、お前が死ぬかだ」
 「……」
 直江はゆっくりと男に近づいた。
 「止まれ!」
 「彼を、離せ。刺すなら、私を刺せ」
 男の手が震える。
 「姫様だけじゃない、貴様のせいで俺の妹は死んだんだ!お前の足が遠のいたのは、粗相をした妹のせいだと……あの、あの女……」
 「あの、女……」
 「貴様は覚えてもいないんだろう、与板伯爵の妹姫だ!妹は、与板家に働きに出ていたんだ!屋敷に来たお前に飲み物を零したと言って、妹は折檻されて……だが、本当は」
 男は憎悪に滾る目で直江を見据えた。
 「貴様が戯れに、あの女の前で妹の手に口付けたからだ。あの女は恥をかかされたのを妹のせいにしたんだ!」

 全く覚えていなかった。気まぐれに一夜を共にした女など、ましてや他愛のない駆け引きで戯れた下女のことなど――

 「貴様も喪失を知れ、直江信綱!」

 男は短刀を振り下ろした。

 高耶に向けて振り下ろされた刃は、なんとか間に合った直江が阻んだ。高耶を引き寄せて男に向き直った瞬間、
 今までの逡巡が嘘のように、躊躇なく男の手が動いた。
 短刀が月の光を受けて淡く輝き、下りてくるのがやけにはっきりと見え。
 己の胸につきたてられるのがわかった。



 「な……おえ……」
 男は呆然とした顔で、直江の胸から短刀を引き抜いた。直江の血が辺りを赤く染め、半ば意識がなかった高耶の頬にも、直江の心臓から溢れた血が飛んだ。
 どくん、と、閉じられていた魔力が鳴動する。
 「なおえ!」
 高耶は己の姿を取り戻した。
 『高耶!戻ったのね!』
 喜びに溢れたような声が響く。
 海の向こうには、人魚たちが高耶を待っていた。
 『高耶!』
 『お帰り、高耶!』
 『はやく行きましょう』
 『長老たちももう文句は言えないわ』
 くすくす、と笑い声が響く。
 『ミナコはよくやった』
 『ええ、よくやった』
 『刺したのは人間』
 『高耶でもミナコでもない』
 『二人の人間の望みも叶えた』
 『十分だ』
 『十分』
 人間の男が、高耶を海へと突き落とした。
 「!」
 海に落ちた高耶を人魚たちが取り囲む。
 『お帰りなさい!』
 『高耶!待ってたわ!』
 『帰りましょ』
 『帰りましょ……』

 朝陽に照らされた海岸に、息絶えた直江の躯だけが取り残されていた。





 館中が沈鬱な空気に包まれていた。
 突然睡魔に襲われた館の人間たちは、誰も主が出て行くのを見ていなかった。そして無言の帰宅。
 「直江さま」
 八海は茫然自失のようだった。
 明らかに刺されて絶命した直江を見て王妃は気を失い、父王は犯人を捜すように国中に触れを出した。

 だが、たとえ犯人が判明したとしても、主は帰ってこない――

 葬儀の準備に忙しい八海だったが、いつものように差配などできようはずもなく。直江と兄弟である王太子が人を回してくれてなんとかなった程だった。

 蝋燭の炎がゆらゆらと揺れる。眠るように目を閉じた直江の亡骸についているのは、八海だった。葬儀を明朝に控え、主の魂を安んじようと寝ずの番をする彼の顔は、疲労の色が濃かった。
 「直江さま……」
 だが、眠気などは感じなかった。直江が一人で出て行ったあの日、誰も目覚めていなかったことが八海を打ちのめしていた。
 (あの方を、お一人で行かせてしまうなど……)
 眠りこけてしまった己がふがいなく、許しを請うことすらできなかった。

 きぃ、と小さな音を立てて、もがりをしている八海のみが座る部屋の扉が開いた。
 「……高耶さま!」
 現れたのは、の日から行方不明になっていた高耶だった。



 「八海」
 はじめて聞く高耶の声に、八海は驚いた。
 「高耶さま」
 高耶は横たわる直江を見つめ、それから振り返って八海を見た。
 「すまない、八海。……オレの、せいだ」
 「……」
 八海は目を伏せた。彼を責めるつもりはなかった。
 主は、はじめて己より大切なものを見つけたのだ。それは奇跡のように幸せなことではなかったか。
 「直江さまは、高耶さまを守ることができたのですね」
 「八海」
 苦渋を滲ませる高耶に八海は微笑みかけた。
 「しばし、席を外します」
 立ち上がると、高耶は黙って頭を下げた。

 八海の後姿を見送り、高耶は直江の隣へと座った。
 まるで眠っているような顔だった。
 高耶は手を伸ばしてその頬に触れる。冷たさに一瞬びくりとした。
 「なおえ……」
 額にかかる髪の毛をかきあげて、高耶はその冷たい額に口付けした。
 「ごめんな、直江」
 それから高耶は、左腕の袖を捲り上げた。
 「人魚の血は……死者を甦らせる……人間の言い伝えだと、そうだったよな?」
 試したことはないけど、と高耶は首を傾げる。
 「直江は怒るかな……せっかく助けたのにって。でも、オレ……嬉しくないんだ。直江がいなくちゃ」
 高耶はぽつりぽつりと直江に語りかける。
 「あの嵐の海でお前を助けたこと、後悔したことはないんだ。目の前に溺れた人間がいて、なんで助けたらいけないんだって、思ってた。……でも、それだけじゃなくて。オレ、お前と知り合って、お前を助けることができて本当に良かったって思った」
 くすりと高耶は笑った。
 「だから、もう一度。いや、何度だって、お前を助けられるならそうする」
 高耶は懐から小さなナイフを取り出し、左手首にあてた。
 「直江……」
 高耶は微笑んだ。

 いましも手首を切り裂こうとする高耶を止めたのは、窓から吹き込んだ風だった。
 「あ……」
 高耶の手からナイフが滑り落ちた。
 「なおえ……」
 直江の掌に撫でられたような、そんな気がした。
 「直江」
 震える手を宙に伸ばす。
 「そこに、いるのか」
 優しい風は、高耶を甘やかすようにそっと髪を撫でていく。
 『300年』
 「え?」
 『待っていて、くれますか』
 「なおえ!」
 『貴方を、迎えに行くから』
 300年。人魚の寿命が尽きるまで。
 『それまで、貴方が空に近づいたときには、こうして会いに来ますから』
 今や空気の精となった直江が、高耶の髪を愛しげに梳く。
 「なおえ……なおえ……」
 『貴方が私を呼んでくれたから、私はここにこうしています』
 「ああ」
 高耶の頬に伝う涙を、指で掬うように風が拾っていった。
 『海へ、帰りましょう。海の上に浮かぶ月も、二人で眺めて』
 「なおえ……」
 高耶は、横たわる直江のかつての現身に最後の口付けをして、それから身を起こした。
 『行きましょう』
 高耶は頷き、そっと部屋を後にした。

 波の音を聞きながら、素足で高耶は歩く。砂に残る足跡は一人分だったが、高耶の傍らには直江がいる。
 海岸から、高耶は海中に身を躍らせた。
 本来の姿に戻り、高耶は沖へと泳いだ。
 海の上には真円の月が浮かんでいた。
 ぽかりと浮かんで、高耶はそれを眺めた。
 「きれいだな……」
 直江が、微笑んだような気配がした。








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