比翼





 牛の手綱を取って直江は雪の中を歩いた。
 牛は、賢かった。もしこの牛がいなければ、直江はあっさりと道に迷って死んでいただろう。
 そう、あの瞬間から、直江の心は迷宮に迷い込んだままだった。
 高耶を失った瞬間から。

 懐かしいはずの村にたどり着いても、そこはもはや帰るところではなかった。
 直江の家は黒く焼け焦げた柱が残っているだけの残骸と化していた。
 そして、松田の横暴を看過した村人たちは、己の良心に責められるのが辛いのか、直江と顔を合わせようとはしなかった。
 高耶のために買い求めてきた荷物は、意味を失ってただ重荷として牛の背にあるだけ。
 牛が鳴いた。
 「……ああ、お前も腹が減っただろう……」
 荷から牛の餌を出して与えると、黙々と食べている。だが、直江のほうは全く空腹を感じなかった。
 「誰かにお前の世話をしてもらわないとな」
 直江は己が生きて動いているのが不思議だった。
 「直江……さん!」
 どこか痛々しさを感じさせる声に、直江は振り返った。
 「藤さん」
 藤は、涙を浮かべていた。
 「ご無事だったんですね、良かった」
 純粋に直江の無事を案じ、こうして帰ったことを心から喜んでくれている。それがわかって直江は戸惑った。
 「あの……」
 「旅でお疲れなのに、こんなことになっていて……さぞお力を落としていらっしゃるでしょう。もしよろしければ、我が家へいらっしゃいませんか。小さなあばら家ですが、私のほかは弟が一人いるだけですから」
 直江は体を休めることに興味など覚えなかったが、牛の足が腫れているのではないかと気になって、結局頷いた。
 藤の家は本人が言ったように小さく、かつての直江の家と同じように貧しいものだったが、人を安心させるような暖かなものだった。
 「こちらに」
 藤に招き入れられ、直江は頭を下げた。
 「お邪魔します」
 土間に牛を繋ぎ、荷物を下ろす。
 「姉さん!?」
 男の声に直江は振り向いた。先ほど藤が言っていた、彼女の弟だろう。美しくやさしい顔立ちの藤とはあまり似ていなかった。
 「あんた、誰だ」
 鋭い目で直江を睨んでくる。
 「凛太郎、お前も知っているでしょう、直江さんです。ほら、この間の火事で……」
 毛を逆立てたネコのように直江を威嚇していた男の表情がわずかに緩む。
 「ああ……で、まさか姉さん」
 「だって、長旅から帰ってらしたのに、休むところもないなんてひどすぎる」
 凛太郎は嘆息したが、結局頷いた。
 「わかったよ、姉さん。直江さん、狭いところですが」
 目元を和らげると、きつい印象がずいぶんと薄らいだ。
 「ありがとうございます。ですが、ご迷惑をおかけするのは本意ではありませんから。ただ、この牛の面倒を見てくださると助かります。……餌はここに」
 凛太郎が眉を寄せた。
 「直江さん、俺たちはあんたが松田に嫌がらせをされていることを承知で家にあげている。覚悟の上だ。別に直江さんのためじゃない、こんな理不尽が許されているのが納得できない。それだけだ」
 「凛太郎さん……藤さん……」
 藤が足を拭う布を持ってきてくれ、火のそばを勧めてくれた。
 「……本当に……ありがとうございます……」
 直江は深く頭を下げた。
 藤や凛太郎との生活は穏やかなものだった。直江が持っていた荷物は冬の間の食料と炭を十分賄うことができる量だったことも幸いした。
 「逆に助かったようなものだよな、姉さん」
 凛太郎も直江に打ち解けてくれたようだった。あまり饒舌ではない彼だったが、ぽつりぽつりと自分や姉のことを話したり、直江のことを気遣う様子を見せてくれる。
 その朴訥な話し方や、真正面から人を見る癖が、どこか――あの人に似ていた。
 (高耶さん)
 高耶のことを思うだけで直江の胸は疼いた。

 松田が帰らないことを人々は当初訝った。だが、もし松田が戻ってきたらと村人たちは皆恐れているのか、≪死んだのではないか≫という噂にはなかなかならなかった。
 だが、新年を迎え、雪の中の福寿草が早春を告げるころになると、誰もが内心で松田は死んだと思っているようだった。
 「おぉ、直江さん、藤さんの家に世話になってるんだって?」
 ひっひと笑いながら村長が話し掛けてきたのはそんな頃だった。
 「火事は災難だったが、春になったら村で協力して直江さんの家を建て直そうと思っとったんじゃが、のう?いらんかのう」
 顎を撫でながらそんなことを言われ、直江は困惑した。
 「いえ、いつまでも藤さんの所にごやっかいになるわけには」
 だが、村人たちに建て直しを手伝ってもらう気にはなれなかった。高耶と共にいたのはほんのわずかな期間だったが、あの家に立ち寄ってなどほしくない。
 (それとも……村を出るか……)
 母の残してくれた最後の物も失い、高耶を失った記憶を抱え、これからどうしてこの村で暮らせるだろう。
 「おやおや、藤さんも凛太郎くんも、直江さんを家族として迎えたいんだろうに」
 意味ありげに笑う村長が疎ましかった。
 「藤さんは、最初から……いやいや、これはいかん」
 「……」
 直江は俯いた。
 藤の好意は感じていた。だが、直江には返せるものが何もなかった。
 直江の心は、すでに高耶に捧げられ、ここに残っているのはただの抜け殻なのだ。高耶を失うまで、そのことにすら気付いていなかった。
 「決まったら、わしが仲人してやるからの、すぐに話すようにな」
 直江の暗い表情に気付かない様子で、村長は一人上機嫌そうに去っていった。
 「直江さん、どうしたんだ」
 纏められた荷物を見て凛太郎は訝ったように首をかしげた。
 「凛太郎さん、今までお世話になりました。実は、この村を出ようかと思いまして」
 「村を出る!?なんだってそんな!」
 「……」
 わずかばかりの畑を耕し、冬には藁を編み、あるいは機を織る暮らしを疎んじたことはなかった。今までも、これからも変わらぬ村の暮らし。だが、もはや直江には耐えられなかった。
 高耶のいない暮らしが。
 (馬鹿だな、俺は)
 どちらにせよ、彼は北へ帰るために、春には去らねばならなかったのだ。この一冬だけの、儚い絆しか最初から結べなかったのに。なのにこんなにも捕らわれてしまった。
 「直江さん、あんた……姉さんの気持ち、知ってるんだろう?」
 まっすぐな凛太郎の視線から、直江は目を逸らさなかった。
 「それでも、行くのか」
 「……すまない」
 凛太郎は小さく息を吐いた。
 「だが、せめて春まではここにいたほうがいいだろう?解けかけた雪は一番危険だ。どこに行くにしても……」
 「いや、もう決めた……」
 直江は居ずまいを正して凛太郎に頭を下げた。
 「今まで、すまなかった。焼け出された私を受け入れてくれて、本当に感謝している」
 凛太郎は静かに頷いた。
 「気をつけて。元気でな」
 直江は、もう一度、深く頭を下げた。
 風花が舞っていた。顔を上げて風花の行方を見る。振り返れば、己の辿ってきた足跡が雪上に残るだけの、どこまでも白い世界だ。
 行くあてもなく村を出てきたことを直江は後悔していなかった。
 春の来る前に。――彼が去ってしまう前に、もう一度、一目だけでも会いたかった。人の姿でなくてかまわなかった。
 (確か、川の傍……と言っていなかったか)
 もう居場所は変えてしまっただろうが、それでも湖沼地帯か湿地帯だろう。雪や氷を踏み抜いて命を落とす危険があるのはもちろんわかっていたが、直江は躊躇うことなく川辺に足を向けた。

 美しい鶴が二羽、たがいに舞いあっているのが見えた。仲むつまじいその姿はあまりに美しく、直江は一瞬、その姿を憎んだ。
 歩きつづけた直江は、湖沼のそばで鶴の群れを見つけ、彼らを驚かせないように細心の注意を払いながら近づいた。
 だが、高耶はいない。見ればわかった。
 「高耶さん……」
 かすかな溜息とともに直江は踵を返し、再び歩き始めた。

 雪がゆっくりと降り始めた。
 白い、白い雪の中、直江はひたすらに歩いた。
 「高耶さん」
 まるで熱病のような、直江を捕え、離さないその名前。直江の、生きる熱そのものの名。
 直江はぬかるみに足を取られ、山肌を滑り落ちた。



 気がつけば、直江の体は冷え切っていた。どうやら沢に落ちたらしい。このままでいれば、確実に凍え死ぬ。だが、体を動かそうとしたときに走った痛みに直江は呻き声をあげた。打ちつけでもしたのか、背中が痛み、なんとか体を起こしたが、足は動かなかった。
 「く……」
 感覚の鈍くなっている手でなんとか足を探る。骨は折れていないようだったが、捻ってしまったようだ。動けないのならば、骨折でも捻挫でも、辿る未来に違いはなさそうだった。
 直江は空を見上げた。まっしろな、彼の羽根のような、雪。
 雪にすべての音が吸い取られていくようだった。
 (……悪くない……)
 彼の翼に包まれていると思えば、むしろ幸福だった。
 この雪のどこかに、彼も、きっといるのだろう。北帰行にはまだ少しある。
 彼を包む雪が、直江を包んでいるのと同じように優しくありますように、と直江は祈るように目を閉じた。

 「……?」
 温かいものを感じて直江は目をなんとか開いた。
 白い影のようなものが直江に覆い被さるようにしていた。
 「……高耶さん……」
 かすかな直江の呟きが聞こえたのか、影は直江の傍から身を起こした。
 「人の子よ」
 高耶の声ではなかった。ぶっきらぼうなのに、決して直江を突き放さない、彼の暖かな声が脳裏に甦り、直江は息を吐いた。
 「気がついたか」
 目を向けると、影は人間の男と同じような姿をしていた。だが赤い瞳は人には有り得ないような光を湛えて直江を見つめている。
 「私はお前を救った」
 「……ええ……ありがとうございます」
 別に救ってもらいたかったわけではなかったが、直江は礼を言った。
 「礼として、高耶がお前に支払ったものを返してもらおう」
 「……!?」
 驚愕に目を見開いて直江は体を起こし、走った痛みを堪えて男に手を伸ばした。
 「あなたは、高耶さんの知り合いなんですか!」
 「……」
 よくよく見れば、顔立ちが似ていた。高耶よりずいぶんと歳は上なのか、外見は直江と同年代のようだった。
 「弟は、北への旅に耐えられないだろう」
 弟、ということは、彼の兄だろう。淡々とした口調で告げられた言葉を直江は一瞬理解できなかった。
 「耐えられない……」
 「お前のせいだろう、直江信綱。お前のために高耶は羽根をあんなに失ってしまったのだ」
 「高耶さん……」
 男は直江に冷厳な眼差しを向けた。直江はじっと見つめ返した。たじろがない眼に、男はわずかに目を瞠った。
 「お前は」
 ゆっくりと男が言葉を続けた。高耶に良く似た、嘘を許さない目に見据えられ、直江はたじろぐより懐かしさを覚えた。
 「何故、高耶を探していた」
 「彼に会いたかった」
 「……何故、会いたいのだ」
 何故、など。高耶がいなくては直江は凍えてしまう。直江の熱は高耶が皆持っていってしまったのだ。
 「生きていけない……彼がいなくては、生きていけない……」
 男は不思議なものを見るような目で直江を見つめた。
 「お前は、高耶を……」
 言葉を切り、男は唇を引き結んだ。
 それから、目を細めてわずかに笑った。
 「高耶と共に生きたいのか」
 「でなければ生きていけないのです」
 「……高耶はもう人の姿は取れぬ。それでもか」
 「構いません」
 「鶴の姿のまま、人の世で生きよと言うか」
 「それは」
 直江は言葉に詰まった。
 「それとも」
 お前が、鶴になるか――

 男は笑った。


 「いいだろう、直江信綱――」



 「姉さん、なにかいいことでもあったの?」
 弟に、藤は微笑みかけた。
 「鶴たちが北へ帰っていくのを見たわ。もうじき春が来るのね」
 何百羽という群れが、北帰行へと飛び立っていく有様は美しく荘厳だった。
 「そうそう、怪我をしている鶴がいたわ、今年はここに残るのかも知れないわね」
 羽根を傷めているような鶴が、飛び立つ鶴たちを眺めるように優美な首を伸ばしていた。
 「そうか、寂しいだろうな」
 「大丈夫よ」
 鶴の姿を思い出して藤は笑った。
 「つがいのようだったもの」
 鶴の伴侶は、一生にただ一羽。
 怪我をした鶴を労わるように、もう一羽が傍に佇む。
 「……たった二羽になってしまっても、とても幸せそうだったわ」
 藤の笑みに、凛太郎も微笑んだ。








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