夢十夜

その1




 夢を見た。



 そこは見覚えのない部屋だった。
 柔らかな色の壁紙に、あたたかな料理のにおい。大きな窓から差し込む光はきらきらと輝いていた。
 ナナリーは目を瞬いてあたりを見回した。
「ここは……」
 見覚えがないのに、なぜかひどく懐かしい。
 ナナリーは車椅子を動かした。床には全く段差がなく、車椅子は滑らかに動いた。机と家具の間は計算されたように車椅子を妨げることなく、まるで通いなれた道を行くように動ける。
(……まるで、ではなく……)
 ここは。
 ナナリーの《我が家》だ。いや、かつてそうだった場所、フレイヤの光に呑まれ、その半分を失ったはずのクラブハウスの一隅だった。
 そこかしこに残る兄の気配を探し、ナナリーは部屋を出た。
「お兄様」
 居間へと辿り着くと、学生服の上にエプロンをつけた兄が皿を持って立っていた。
 ナナリーが一度も肉眼で見ることの叶わなかった、学生服を纏った兄の微笑む姿だった。
「お兄様!」
 彼女の叫びは、ルルーシュには聞こえないようだった。兄の傍らにはナナリーではない少年がいて、その少年にルルーシュは優しく微笑みかけていた。
「できたぞ、ロロ」
「美味しそうだね、兄さん!」
「当然だ、お前の好物ばかりそろえたんだからな」
 皿をテーブルに置き、愛しげに見知らぬ少年の頭を撫でるルルーシュに、ナナリーは目を見開いた。
「お兄様……?」
 そういえば、とようやくナナリーは思い出した。
 兄は記憶を改竄されて、監視役の少年を弟としてアッシュフォード学園に『飼われて』いたのだと。
 ナナリーは黙って彼ら二人を見つめた。
 偽りのはずの兄弟は、互いに愛しい家族を見つめる目で微笑を交わし、食卓についた。
「兄さん、昨日教えてもらった数学だけど」
「ああ。どうだった?」
「ばっちりだったよ!やっぱり兄さんに教えてもらうのが一番だね」
 ルルーシュは弟に手放しで賛美されてまんざらでもない様子で笑った。
「以前やっている問題を教えられないようじゃ駄目だろう。それより、ロロの呑み込みがいいからだよ」
 ルルーシュは優美なしぐさでスープを口に運びながら、弟に目を細めていた。
(その視線は)
 かつてナナリーに向けられていたはずのものだった。
 視界の閉ざされたナナリーのために、視線のほかにも兄はいくらでもナナリーの欲するものをくれた。
 あたたかな声、やさしい掌、美しい子守唄、溢れるほどの気遣い。ナナリーは真綿にくるまれるようにそれらに包まれて、陽だまりにいるような幸福を甘受していた。
『愛してる、ナナリー』
 ナナリーは己の頬が濡れていることに気付いた。


 暖かな陽だまりが目の前にある。だがナナリーはそこには行けない。


「……!」
 突然あたりが白一色の閃光に包まれ、ナナリーは咄嗟に目を閉じた。
 ようやく再び目を開いたとき、先程まで兄とその弟がいたはずの居間は、ただぽっかりと空いた穴をさらしていた。
「嘘……」
 ナナリーは身を震わせた。
「嘘ではない」
 冷徹な声が背後から響いた。ナナリーは振り返ることもできなかった。
「無数の『ランペルージ兄弟』が、フレイヤの光に呑まれた」
「!」
 フレイヤ。このトウキョウ租界でその引き金を引いたのは枢木スザクだった。そしてその当時、エリア11の総督は、他でもないナナリーだった。
 ナナリーだったのだ。
 そして。
「トウキョウでも――そしてペンドラゴンでも。フジ山上空でも」
 いくつの命を散らしたのか。ナナリーの両手は人類史上、最も血に塗れているだろう。
 だから、ナナリーはあちらには行けない。

 どれほど温かで懐かしい陽だまりでも、ナナリーはもはやあの場所に戻ることは許されないのだ。
「そうです、わたくしは――ナナリー・ヴィ・ブリタニア。最後のブリタニア皇族の一人として、贖わねばならぬ罪科と、果たさねばならぬ責務があります」
 己の愚かさが、億の民を呑み込んだ。
 その罪を罰されることすら許されず、ただナナリーは悪逆皇帝を謗り、未来への希望だけを語らねばならない。
 それこそがナナリーに科せられた義務と贖罪だった。
 夢だとわかっていてさえ、寝言ですらナナリーはもはや兄に『愛している』と告げることは許されないのだ。
「罰されたいのか」
「いいえ、いいえ……そんなことが許されないのはわかっています。わかって、います……」
 ナナリーは歯を食いしばった。兄を思って涙をこぼすことなど、してはならない。兄が望んだ世界に、一歩でも近づくために。
 ナナリーは束の間、目を閉じた。かつて兄と共にいた頃、身をゆだねていた暗闇は、今もなおナナリーの傍にある。兄が注いでくれた愛は、ここに、己の内に、変わらずある。
(わたくしは弱く、愚かで、目を開きながらなお盲目のままだった)
 兄の愛は、こんなにも己の身を満たしてくれていたのに。
(あなたは一人で、こんなにも早く逝ってしまわれたけれど)
 父皇帝の罪も、ナナリーの咎も、世界の悪のすべてを背負い、何一つ思い残すことはない、と微笑んで。
 ナナリーは目を開けて己の胸に手を当てた。
「大丈夫です。わたくしは、歩けます、――歩きます」
 動かぬ足で、一歩一歩、それでも前に進める、と言い切り、ナナリーは微笑んだ。
「ここに兄の灯してくれた光があります」
「……そうか」
 冷ややかな声は、だが先程の冷徹さを幾分か失ったようだった。
「だから、もう……心配しないでいいんです」
 ナナリーはようやく振り向いた。
 立っていたのは、白い皇帝服を纏った《悪逆皇帝》だった。
「行くか」
「はい……はい」
 ナナリーは車椅子から立ち上がり、両手に杖を取った。
「さようなら、お兄様」
「……さよなら、ナナリー」
 ナナリーはぐっと足に力を篭めた。そしてそれきり振り返らず、ただ動かぬ足を前に出し続けた。






区切り線




「ナナリー!」
 ナナリーが目を開けると、覗き込んでいたのは異母姉だった。
「気がついたか、ナナリー」
 兄に似た紫瞳を潤ませてナナリーを見つめる彼女に、ナナリーは懸命に微笑みかけた。
「だいじょうぶ、です……お姉さま。わたくしはどのくらい意識を失っていたのでしょう」
 ほっと安堵の息を吐くコーネリアに、ナナリーは現状を理解する。
 会議のために訪れたかつてのエリア11、今の日本へと降り立った瞬間に撃たれたのだ。急所は外れていたのだろう。
「三時間程度だ。犯人はゼロが捕らえた。背後関係は今探っているところだが……」
 狙われる覚えならありすぎるほどだった。
 フレイヤ被害者の遺族も、急激に解体された貴族階級の不満分子も、エリア解放に反対するブリタニア至上主義者たちも、ナナリーを殺したいほど憎んでもいれば、邪魔だと思ってもいるだろう。今までナナリーが無事だったのは、ひとえにルルーシュが改革の大鉈を振るい、憎まれ役を買ってくれたからに他ならない。
「ナナリー、まだ動いては……」
「のんびりと寝ているわけにはいきません、わたくしが生きていることを示さねば」
 コーネリアは唇を噛み、不承不承頷いた。
 お飾りにすぎずとも、いや、飾りだからこそ、今、養生のためと言って寝ていることはできなかった。
 フレイヤ被害者に仇として討たれるわけにはいかない。それは黒の騎士団、そしてゼロもろとも汚名をかぶることになる。ナナリーはしおらしく謝りながら、その上で非は悪逆皇帝にあると世界に印象付けなくてはならない。
 最愛の兄を、世界の敵として。
(けれど)
 ナナリーは知っている。
 今となっては、ナナリーしか知らぬ、ナナリーの兄を。
 それだけで、幸福だ。幸福なのだ。
(お兄様の愛を思うだけで、こんなにも胸があたたかい)
 どうしようもない、胸を切り裂くような痛みと同時に、溢れてくる温かなものにナナリーは顔を歪めた。
「ななりー……」
 ゼロに連絡を入れ、襲撃のために延期になろうとしていた会議に出席する旨を伝える。それからシュナイゼルに、襲撃を受けたことに対する記者会見の草稿を依頼するよう頼んだ。迂闊なことは一言も漏らせない。間違うことは許されないのだ。
 そしてナナリーは寝台を這い出し、服を調え、車椅子に乗り込んだ。
 背筋を伸ばし、姉を振り返る。
「行きましょう、お姉さま」
 ナナリーは光溢れる外へと、車椅子を進めた。






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