甘い水





 アパートを出て、高耶は弾むような足取りで歩いた。十月の空は真夏の暑さからも冬の寒さからも解放され、どこか透き通って心地よかった。
 高耶の住むアパートは築二十年は経っているだろう年季の入った建物で、空室がぽつぽつと目立ち始めている状態だった。だがその代わりのように、住人の皆が知り合い以上に助け合う共同体のようになっている。どちらかと言えば人見知りな高耶が馴染むには時間がかかったが、その分今は彼らに色々助けてもらっていた。
「あー、景虎〜!」
 人に適当なあだ名をつけて呼ぶのは、女性としては些かハスキーな声だ。
「ねーさん、だからその景虎って……」
「あらん、いいじゃないのぉ」
 シナをつくって後から高耶に抱きついてきた女性――と呼ぶには少しだけ語弊があるかも知れない――は、高耶の隣の住人だ。門脇綾子、と名乗っているが、本名はもっとごつい名前らしい。
「ね、ね、買い物行くんでしょ?コレ、買ってきてよ」
「ねーさんのほうが力持ちじゃ……ごふっ」
 綾子の示したのは、近所のスーパーの『本日の目玉商品』が掲載されたちらし、その一番目立つ中央に配置された代物だった。天然Mg入りの外国産ミネラルウォーターで、有名なそれとは一文字違いという怪しさだ。
「一ケース、お願いね!」
 腹部に一発裏拳を入れられて、問答無用で『お願い』された高耶には勿論抗う権利などなかった。

「そんなにいいのか?ただの水だろ……」
 アパートも古いが、このスーパーも相当に古い。高耶が越してくる前からすでにさびれ始めていたこの店は、今日もやはり寂れていた。そんな店内も、さすがに特売品の棚前にはぽつぽつと人がいた。その中を掻き分けるようにして高耶は綾子指定のミネラルウォーターをカートに入れる。生まれてこのかた、自宅で水道水以外を飲んだことのない高耶には、ミネラルウォータの効用などまったくわからなかった。
 一気に重くなったカートを引いて、高耶は自分の買い物を済ませる。今日の夕飯は肉じゃがにしようと決めて、安売りの肉とじゃがいもを買った。
「……オレも一本、買ってみるか……」
 なぜその日に限ってそんな妙な気を起こしたのか、高耶にもわからなかったが、何かに導かれるかのように高耶は綾子と同じミネラルウォーターの2Lボトルを一本、カートに追加した。



区切り線




 買ってきたミネラルウォーターの一ケースを綾子に渡し、礼だと強引に頬にキスされて辟易し、もう一つの礼のひじきの煮物のほうはありがたく頂いて、高耶は自室へと戻った。
「痩せるのよ、とか言ってたけど、水で痩せたらこえーよな」
 むしろヤバイだろう、と高耶はちらと思った。
 ともかく、と肉じゃがをつくり、綾子に貰ったひじきの煮物と適当に作ったサラダを並べ夕食にする。綾子は大雑把な性格のままの料理しか作れないので、正直煮物の出来はイマイチだったが、それはそれとして腹に収め、代わりに肉じゃがでも持っていってやろうかとつらつら考えながら食後の茶を啜った。ミネラルウォーターの出番は、とりあえずはなかった。そうして風呂を済ませ、歯磨きもして、パジャマがわりのシャツを着て、といつも通りの日常で過ごし、蒲団を引いて横になった。
「そうだ、水でも飲んで寝るか……」
 綾子が言っていた通り、寝る前に一杯飲もう、と高耶はペットボトルのキャップを捻った。

「!?」

 唐突に現れた男に高耶は絶句する。

「あなたが私を呼んだんですね」

 狭い部屋には邪魔としか思えない、大きな男――それが、初めて直江に会った高耶が覚えた最初の感想だった。





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