甘い水
2
高耶は冷蔵庫からペットボトルを取り出し、キャップを捻った。水をコップにうつし、それをじっと見つめる。
「高耶さん」
後からかけられた声に、高耶はもう驚かなかった。
「なんだ、直江」
そっけない高耶の返答に、男――直江は哀しげに溜息をついた。
「冷たいですね」
「お前の本体のほうがずっと冷たいだろう、何せ今まで冷蔵庫に入ってたんだからな」
高耶の揶揄にも、直江は動じなかった。
「たしかにわが身は冷たいかも知れませんが、心は熱湯と同じですから」
そう言って直江は高耶に笑いかけた。
水は無色透明だった。だが高耶が飲むのを躊躇うのは、理由がある。
「……やっぱり、減らない……」
コップに水を注いだ分、減っているはずのペットボトルの水が、元の量まで戻っていた。
己を水の精だと主張する男は、無害そうな笑みを浮かべていたが、高耶には胡散臭く思えて仕方がない。
(でも、オレ……もう飲んじまったし……)
そう、既に高耶は、この怪しい水を飲んでしまっていた。
「ねぇ、私の味はどうでした?その唇に触れて、喉の奥まで伝わって……」
この男が言うとなんというかセクハラを受けている気分だ。
「お前……」
高耶が睨むと、男はにこりとした。
「直江です」
「直江……」
脱力して高耶はコップの水を飲んだ。冷たくて爽やかな、だがごくごく普通の水だ。
(ええい、水代浮くと思えばなんでもない!)
高耶はペットボトルを冷蔵庫に戻した。
「……直江」
名前を呼ばれたのが嬉しいのか、自称水の精はにこにことして高耶に近寄ってきた。その様子はまるで仔犬のようで、己より背の高い男相手に何を考えているんだと自分でついつっこみを入れてしまう。
「なんでしょうか、高耶さん」
「あのな……お前、この水買ったやつのところにはもれなく憑いてくるのか」
「まさか」
直江は首を横に振った。
「私は世界でただ一人、高耶さんを選んで出てきました」
胸を張って言われても、高耶は喜べない。
「この水を紹介してくれたねーさんが言うには……痩せるとかなんとか……」
「水で痩せられるなら世の中の人間は皆ダイエットなどしないでしょう。まあ……便秘は解消しますが」
「あ、いや、オレ別にそんなんじゃないし!」
直江の笑顔が一瞬だけ真っ黒く見えた高耶は、そこだけは強調した。
「ま、まあただの水ならいいんだ」
ただの水、というのが気に入らなかったのか、直江はぴくりと眉を上げた。
「ただの水とは……コレは他の人間宅へと届いている水とは別物です」
「まさか痩せるのか」
「だから痩せないです。そうじゃなくて……甘露です」
高耶は怪訝に思って首をかしげた。
「甘くないけど」
直江はふっと高耶の無知を憐れむように笑った。
「甘露というのは、アムリタのことですよ」
高耶は額にびしびしと青筋を立てながら直江をせせら笑った。
「それで人に伝わると思ったら大間違いだぞ、直江。あーやだやだ、独りよがりで自分だけが賢いと思っている勘違い野郎は」
直江はさすがにむっとしたらしく、口をへの字に結んだ。
「……まあ、いいです。高耶さんの口の悪いのは今に始まったことではありませんからね」
やけにしみじみとした口調は、まるで高耶と四百年ほど付き合ったとでもいうような情感溢れるものだったが、子供扱いされたような気もして仕方がない。
「それに、もう高耶さんは飲んでくださったわけですから」
「……甘露、って、体に悪いのか……?」
「まさか!なんで私が高耶さんに悪いものを飲ませるわけがあるんですか!逆ですよ、逆!高耶さんはもう不老不死です!」
「え」
高耶は直江のあまりの科白に、意識を失いかけた。
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