掌の鍵






 長男がマンションに帰ってきたのは久しぶりだった。母親を見て、息子――ナオトは複雑そうな顔をした。ヴィレッタの留守を見計らってきていたのだろう。
 最近、扇とその秘書を務める長男の顔を、ヴィレッタは殆ど見ていなかった。
「珍しいな」
「着替えがなかったので……」
 もごもごと言いつくろう息子は、頼りないことこの上ない。これが次男であれば、その場で百や二百はそれらしい表情を作るだろう。その双子の弟のはずの三男は、まったく取り繕うことをしないだろうが。
「まあいい。元気でやっているのか」
「はい……」
 扇と長男がヴィレッタを厭う様になってきたのは、国内情勢がきな臭くなってきたのと時を同じくしていた。内の不満を外に向けるのは常套手段で、今の日本ではその『外』がブリタニアだ。戦争終結直後は祝福された国際結婚が、今は逆に扇の足枷となっている。――少なくとも扇は、そう考えている。
 ヴィレッタは溜息を押し殺した。ナオトも混血であることで、大きな不利益を被っている。本人は、そう思っている。
 それがわかるので、ヴィレッタは彼らがマンションに帰ってこないことに対して不満を漏らさなかった。
 だが、今日は聞きたいことがある。
「丁度よかった。ナオト、カレンのことだが、再研修施設に送られたと聞いた。本当か」
「ええ、残念ですが」
 ナオトは言葉とは裏腹に吐き捨てるようにそう言った。ヴィレッタは拳を握り締めた。ナオトの名前は、彼女の兄から貰ったのだ。それほどの関わりを持ちながら、今となっては疎ましいだけなのか。
「再研修が終わればまたアッシュフォードに戻れますよ」
 ヴィレッタは唇を噛んだ。教師の再研修、と言えば聞こえはいいが、既に本来の機能を喪失して久しい。今の再研修施設は都合の悪いことを言う口を塞ぐ、そのための施設なのだ。
「父さんは何か言っていたか」
 ナオトは肩を竦めた。
「そんな一教師に関わっていられるほど暇じゃありませんよ、父さんは」
「……そうか」
 かつてはその一教師に過ぎなかった扇が、今では内閣総理大臣だ。そしてその地位を失うまいと汲々としている。そのことに苦いものを感じ、ヴィレッタは押し黙った。
「母さん、余計なことはしないで下さいよ」
 思わずヴィレッタは眉を上げた。
「余計なこととはなんだ」
 ヴィレッタが睨むと、ナオトはびくりとした。自分が優位だと思っている間は居丈高だが、その実小心者のこの息子は、父親そっくりの気弱げな表情を浮かべ、おどおどと言い募った。
「ブ、ブリタニア人の母さんが、カレンさんを庇うようなことをしたら逆効果だって、そう言っているんです」
「――」
「ブリタニアの血が入っているだけで、肩身が狭いんですから、僕だって」
 ヴィレッタは息子の顔を見やった。一見では日本人にしか見えない、黄色い肌、黒い髪、こげ茶の瞳、それでも血は血だ。この息子でそれほど肩身が狭いなら、ヴィレッタの血が色濃く出た下の二人の苦労は如何ほどだろう。
「ともかく、そういうことですから」
 ヴィレッタの沈黙に耐えられなくなったように、ナオトは慌しく大きなスーツケースを持って出て行った。それを見送り、ヴィレッタは再び溜息をついた。



区切り線




 誰もいないマンションは、ひどく静かだ。
 ヴィレッタはアルバムを捲り、ふっと微笑んだ。
(ああ、ナオトはどうにも神経質で、泣き出したら止まらなかったな……)
 泣いているナオトを抱きかかえて途方にくれたような、だが幸せそうなヴィレッタがそこには写っている。撮影したのは扇だった。
(ああ、ルルはいい子だったな……病弱でよく熱を出して心配ばかりかけられてしまったが……ロロは、結局一度しか乳を飲んでくれなかった。まったく気難しくて、どうしようもなかったが……)
 けれど兄のルイツと一緒ならば殆ど泣きもしなかった。兄の前ではいい子なのだ。兄の看病で母親を取られても、愚図ったことなどなかった。本当に、仲のいい双子だ。
「ルルと、ロロか」
 忘れられない面影を思い出し、ヴィレッタはもう一つのアルバムを取り出した。それはアルバムと呼ぶには本当は相応しくない。本来ならヴィレッタの身の安全のためにも、燃やしてしかるべきだった。けれど、できなかった。
 偽りの兄弟の、幸福の欠片だ。
 一年、兄弟を見ていた。見ていた、はずだった。
「本当はどんな奴なのか、ちゃんと知っていたはずなのにな」
 仮面のない、本物の、『ルルーシュ・ランペルージ』。
 写真の中で屈託なく笑う、後の悪逆皇帝の顔が、不意にぼやけた。
 十八歳の少年が託した、託してくれたものを思う。そしてはるか以前に死んだ少女の顔を。愚かなまでに彼を信じ、そして殺された少女は、だがきっと誰よりも大切なことを知っていたのだ。
「笑われてしまうな」
 いや、諭されるかも知れない。
「――託されたものを、守らなくてはな」
 ヴィレッタは目を閉じ、深く息をついた。やらなくてはならないことを脳内で整理し、やおら立ち上がった。既にヴィレッタの中に迷いはなかった。




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