甘い水





「あ……」
 高耶は包丁を動かす手を止めた。刻んだ葱は、俎から溢れそうなほどの量になっていた。どう見ても、一人で食べきれる量ではない。高耶は舌打ちした。
(くそ、何やってんだ、オレ)
 買い物も、いつの間にか二人分用意するようになっていた。食事などいらないはずの相手にそれでも用意してやっていたのは、高耶の料理をあの男があまりに食べたそうにしていたからだ。
「馬鹿馬鹿しい……」
 裕福とは言いがたいのに、頼まれもしない居候の食事を作って食わして。
(しかも、それが嬉しかったなんて……)
 タチの悪いヒモに居つかれたのとどう違うのか。高耶は包丁を俎にたたきつけた。
「今日は葱焼きだ。だからこんなに沢山葱を切ったんだ、決してあいつの分まで作ろうとか思ったわけじゃねーんだ」
 葱焼きにしても量が多いが、高耶はそれを見ないふりをした。



 飲みなれないビールを二缶も空けて、高耶は酔いが回った頭のまま食卓に突っ伏していた。
「ああ、なんか……つまんねーな……」
 静か過ぎる、と高耶は葱焼きの残りを箸でつついた。
(ああ、本当は鍋にしようと思ってたんだっけ……)
 直江は湯豆腐が好きなようだったから、豆腐と一緒に葱やら野菜を煮て、と思っていたのだ。
「でも、あいつが悪いんだ……」
 オレのことなんて、ちっとも興味ないんだ、と呟いて、高耶はよろけながらも立ち上がった。喉が渇いて仕方がない。空の缶を転がして、冷蔵庫に向かう。だが当然そこにミネラルウォーターのペットボトルはなかった。
「なんで、いないんだよ……」
 理不尽なのは頭の隅ではわかっていたが、高耶は冷蔵庫を開けたままそこにへろりと座り込んだ。妙に明るい冷蔵庫の中は白々としていて、やけに寂しかった。



区切り線




「よう、朝っぱらから景気の悪そうな面してんなー」
 高耶はゴミの袋を手に持ったままぎろりと千秋を睨んだ。
「誰の景気が悪いって?」
「あー、何でもねーよ」
 千秋が首を縮め、それから声をひそめた。
「そういえばさ、知ってるか?綾子の話」
「なんだ」
 千秋が胸のあたりで円を描くような動作をする。
「すっかりボーンって」
「え」
「当然、手術だろうけどよー、すげーぞ」
 高耶は呆然とした。
(なんだ、結構うまくやってんのか、ねーさんと)
 直江は綾子の胸をぺったんこにしていたが、それの謝罪だろう。
「あー、くそっ」
 高耶はゴミを置くと、もやもやした気分のままその場を足早に離れた。

 部屋の前まで戻ると、綾子が立っていた。手には例のペットボトルがある。
「あら、高耶」
 綾子は、千秋言うところのボーンとなった胸に腕を組んで、聖母のように微笑みかけてきた。
(な、なんかこえーぞ、ねーさん……)
 高耶が知らず後退りすると、綾子はついとこちらに足を踏み出してくる。
「な、なんだよねーさん」
「ダメじゃない、コレ。高耶が持ってなくちゃ」
 語尾にハートマークでもついていそうな口調だった。目はきらきらと輝いていて、一見すれば非の打ち所のない美人だ。だが彼女がそういう顔をするときは、なにか面白いことを期待しているときだと高耶は知っている。
「いやそれねーさんにあげたから」
「ダメじゃない」
 再びそう繰り返し、綾子は高耶の手を取ってペットボトルを握らせた。
「ダメでしょう?高耶」
「は、はい……」
 高耶は大人しくそれを受け取った。



「ただいま……」
 誰もいない部屋に戻り、高耶は玄関のドアをそっと閉めた。だが、すぐにも現れるかと思った直江はまったく姿を見せない。
(なんだ、出てこないのか)
 残念に思った自分に呆れ、高耶はぶんぶんと首を振った。それから台所に向かい、手にしていたペットボトルをじっと見つめ、躊躇いながら蓋を開く。コップに水を汲み、その水面を眺めた。
「……直江」
 呟きに応える声はない。もしかすると、高耶に腹を立てているのかも知れない。コップを持ちあげ、ゆらゆらと中の水を揺らしてみる。無色透明な水が、何の変哲もないままそこにあるだけだ。
 高耶はペットボトルのほうへ視線を戻し、はっとした。
「減って、る……?」
 今まで減ることのなかった水が、減っている。当たり前と言えば当たり前の光景に高耶は目を疑った。
(だ、だって今まで……直江が……)
「直江」
 しんと静まった部屋に、高耶の声だけが響く。自分の声なのに、まるで聞いたことがない他人の声のように響いた。まるで親に置き去りにされた幼子のような、細く頼りない声だった。
「怒ってるのか?」
 高耶はくっと唇を噛んだ。戻ってきて欲しい、と希えばいいのかも知れない。けれど高耶にはそんなことは到底できなかった。





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