甘い水





 ペットボトルの水の最後の一滴が、コップの水面に一瞬波紋を描いた。それを眺め、高耶はすっかり軽くなったペットボトルを台所へと投げた。
 コップの縁に唇が当たる。冷蔵庫の中に入っていた水は些か冷たすぎるほどだったが、くっとコップを傾ける。何か異変が起きるわけもなく、最後まで水を飲み干し、高耶はふっと息を吐いた。
(終りだ)
 高耶は擦り切れた畳の上にぺたりと座り込み、それから膝を抱えて丸くなった。
(何もおかしなことなんて、起きなかったんだ。そうだ、水の精なんているわけない)
 唇を噛み、高耶はようやく顔を上げた。
「さてと、買い物にでも行くか」
 高耶は財布を握って立ち上がった。もう二人分買ってしまうような心配はしなかった。



 うら寂れたスーパーはやはりすいていて、活気がなかった。ただ白々とした明るさが漂っている。
「よう高耶、旦那とは仲直りしたのか〜?」
 軽い調子の声は、振り返らなくても千秋とわかった。高耶は思わず眉を寄せる。
「なんだ、まだなのかよ」
「旦那って誰だ」
 千秋は肩を竦める。
「お前の部屋に居ついたんだろ?例の男。甲斐甲斐しく世話してやってるって、綾子から聞いたぜ」
 高耶はふっと鼻で笑った。
「そんな奴いるわけないだろ」
「高耶?」
「そんな珍妙な話、あるわけねーんだよ」
「おいおい」
 高耶は千秋を置き去りにして籠を手に取った。野菜売り場を覗き、半分に切られた大根と一本そのままのものを見比べ、結局使い切れないよりは、と半分のほうを籠に入れる。
「なあ、ホントはお前、その直江って奴のこと気に入ってたんじゃねーの?」
「あるわけないだろ、そんなこと」
「そりゃ普通なら有り得ないけどよ」
 千秋はくしゃりと髪の毛をかき回し、それから溜息をついた。
「ま、いなくなったんならめでたいやな。そんな怪しいやつ」
「……」
 高耶は黙り込んだまま、鮮魚コーナーへと足を進めた。
(今日は焼き魚にでもするか)
 さっき大根も買ったし、秋刀魚でも焼いて大根おろしをつけるか、と売り場に目をやる。特売で三尾買うと安いようだったが、そんなにはいらないな、と一尾だけビニール袋に取ろうと手を伸ばしたが、千秋が声をかけてきた。
「なあなあ、安いし、三尾を二人で分けないか?」
「は?……まあ、いいけど」
 あまり千秋とそういう風に共同購入をしたことはなかったので戸惑ったが、断る理由もないので頷いた。
「お前、秋刀魚好きなのか?」
 だったら二尾渡そうと思ったが、千秋は首を振った。
「いんや、別に」
「……ふうん」
 怪訝には思ったが、三尾ビニール袋に入れ、他も見て回る。他に必要だった牛乳やらチーズやらを籠に入れ、生活用品も不足しそうなものを補充のためいくつか選んだ。少し距離を置いて千秋も店内を見て回っていたが、出来合いの惣菜をひょいひょいといくつか籠に入れ、それから徐にミネラルウォーターを手に取った。
「これいいんだって?綾子が言ってたぜ」
「――知らねーよ」
 高耶が低く唸るように言うと、千秋はくつくつと笑った。
「コレ、二本セットで安くなるんだな〜」
「二本買えばいいだろ」
 不機嫌な高耶を見て、千秋は笑みを深くしてソレを二本、籠に入れた。
「んじゃ、コレな」
「は?」
 会計が終り、高耶が秋刀魚を一尾渡すと、金の代わりに千秋はミネラルウォーターを一本差し出してきた。
「なんの真似」
 言い終わるより早く千秋は秋刀魚を奪い取り、高耶の買い物用の袋にミネラルウォーターをつっこんだ。
「って、待てって……」
 千秋は肩を竦め、唇の端をにっと上げ、手を振るとさっさと行ってしまった。
「なんで」
 高耶は唇を噛んで俯いた。



区切り線




 新しいペットボトルを袋に入れたまま、高耶は部屋へと帰りついた。生ものははやくしまわなくては、と思いながらも袋を開けるのが嫌で、高耶は冷蔵庫の前に座り込み、がさりと袋を置いた。
「なんなんだよ、もう……」
 千秋の行動が突飛なのはいつものことだ。高耶は気持ちを切り替えようと頭を振った。
(千秋のやることに意味なんてねーんだ、きっと)
 がさり、と袋をあけ、中身を取り出す。大人しく生ものを冷蔵庫へと入れ、最後にミネラルウォーターだけが残った。ペットボトルを袋に残したまま、ぱたりと扉を閉じる。台所の片隅に転がった空のボトルが視界に入り、高耶は慌てて目をそらそうとして思いとどまった。
 もう直江は、きっと高耶のところには来ない。
 ほう、と高耶は息を吐いた。それはどこか安堵に似ていた。
 もう直江が何を思って高耶のところに来たか、何を思って高耶の傍にいたのか、気に病まなくていいのだ。
「直江」
 視界が歪む。目尻の辺りがひりひりとした。
 千秋から渡されたミネラルウォーターの蓋を開け、直に唇をつけた。冷えていないそれは、どこか甘いような気がした。





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